カメレオン

妹とノートパソコンを開いてDVDを見ていた。
わたしが制服を着ていた頃、その最後の夏、広い体育館の馴染みの薄い高い天井の下で踊った舞。伝統とよばれていた。
学園最盛期の入学年度に当たるのがわたしの学年だった。ちょうど。少子化の煽りを食らって、妹の入学した年の生徒数はわたしの代の半分だった。
完成までに一年かかる。企画、構成の段階を含めれば一年と半年だ。集大成という形容が好んでされた。

集団が持つ色や匂いが嫌いだった。どことなく同じ匂いがすること、同じ色に染まること。おぞましくさえ感じられた。
ちがう。一番に心底嫌気が差したのは言葉だ。集団の持つ言葉。ジャルゴン。
陳腐な定型文をそらで言わされることへの屈辱。センスのないジャルゴンの流布こそ、集団の恥ずべき欠陥だ。

擬態が苦手なカメレオンは捕食される。
制服を脱いでなお、そう感じる。今も。

ミッシング


昨日、祖母が家の中でクラゲをなくした。夕飯の和え物に使う予定だったそうだ。わたしは祖父の命に従い、家宅捜査をした。クラゲは出てこなかった。
冷やしきゅうりとクラゲの和え物。夏の味。祖母はわたしが好きなことを知っているので、季節を問わず食卓に並べてくれる。食卓といっても、飲食店を営むかたわら、大型冷凍庫の平たいシートの上に造作なく置かれるだけなのだけど。
あとで判明したのだが、クラゲは冷蔵庫の中、昆布茶の入った容器の隣に横たわっていた。静かに。今夜の冷たい食卓には夏の味が並ぶ。
そして今日、祖母は新たに玉葱をなくした。家宅捜査をするまでもなく、わたしは知っている。昨晩の行方不明者の身代わりとして差し出された生ハム・サラダの大皿に玉葱のスライスが盛られていたことを。

little gripes



知らなければよかったことというのは往々にして目の前に現れるけれど、わたしにとって知らなければよかったことというのは他の誰かにとっても知らないでいる状態が好ましいということなので、話すには気がひける、というのが困りものだ。

上手なしがらみの捨て方とは何だろう。
逗子に向かう新宿湘南ラインの椅子取りゲームに参加しながら考えてみる。
完璧な人間関係の中にあってさえ重荷を感じてしまうとは何事だろう。

失われた時を求めて、というタイトルのフランス小説がある。読んだことはない。
“失われた”というのは、過ぎ去ったの意だろうか。なにか取り返しのつかない、一方的な事象を不可逆的と言う。わたしはこの不可逆的、という言葉がすきだ。断定された事実として横たわる。冷たく無機質でカチッとした錠前を思いだす。
過去への扉には鍵がかかっている。つねに。

夕日の出ている時間だけ息ができる



語らなかった言葉で知られたいというのは暗い欲望だ。身勝手な幻想だ。
消去法的に探り当てられるのを暗い部屋で待っている。

語らなかった言葉というのは、老いも死にもしない。
捨てられずにいる。

読書感想文



今日、読書感想文の話が出た。夏休みの特別課題という印象が強い。実際、記憶に残っているのは中学入学に伴う課題(の一角)だから、夏の専売特許ではなかったらしい。30ほどのリストから選択しての執筆だったが、何を読んで語ったのか、もう忘れた。シャーロックホームズだったような気もする。

この話が出たのは、専修の演習の始業ベルが鳴る前だった。ハリーポッター。シャーロックホームズのファン(愛読者)のことを、シャーロキアンと呼ぶのをもじり、ハリーポッターファンの方はポッタリアンの名称を持つらしい。“ポッタリアン”。ナポリタンとイタリアンを連想させるシラブル。

読書感想文に求められる要素は何か、という話だった。リアクションペーパー。わたしはその次元の内容が求められているのだと思っていた。ファクトに対する忠実な感情の起伏、大多数が持ちうる感性を言語化する。そうすることで、ヒューマニティーを計られているのだ。

文章を書く時、わたしたちは演じる。思考の順番を辿るのではなく、進行して感受しているかのように再現する。また、真に生起したものとは異なる事象を、あたかも胸に抱いているかのように装う。
サウンドアンドフューリー。何も意味しない。